日本の復興の一役をになった国鉄士幌線をご紹介

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国鉄士幌線は帯広駅で根室本線から分岐し、十勝平野を北上して上士幌町十勝三股駅までを結んでいた約80kmの路線です。1925年から翌年にかけて糠平まで開通しました。今回はそんな国鉄士幌線についてご紹介します。

 

国鉄士幌線の開通

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道東の鉄道は開拓を進めるべく1905年10月21日釧路-帯広間が開通し,帯広駅が開業、遅れて明治1907年には帯広-旭川間が開通しました。

1925年に帯広-士幌間が「士幌線」として部分開通し、遅れて翌年には士幌-上士幌間が開通し,上士幌線38.4kmが全通となりました。

士幌線の上士幌以北が「十勝国上士幌ヨリ石狩国ルベシベニ至ル鉄道」として建設計画が建てられており、「ルベシベ」は現在の上川町であり,北海道を縦貫する鉄道として計画されていました。

士幌線建設の目的は十勝地方のさらなる開拓と林業によって得られる木材や農産物の貨物輸送でした。

1939年には十勝三までが開業しましたが、糠平以北は最大25‰という急勾配であり、そのため貨車が暴走する事故が発生しています。1956年7月3日には上士幌駅から下り勾配に単独で走り出した貨車が、勾配を登る列車と正面衝突し、死者6名、負傷者62名という被害が出ました。

 

士幌線の沿線の発展とルート変更

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1919年に島隆美によって発見、開発された糠平温泉道道の開通で旅館建設が相次いでおり,士幌線の開通が大きく期待されました。当時の糠平駅は温泉街とは4.2kmも離れており、バスや馬そりで旅館との間を結んでいました。

十勝三股駅の開業により営林署直轄による森林資源の開発が進みました。
なお士幌線の建設計画書には「本線ハ士幌線ト共ニ根室本線石北線ヲ連繋スル線路ノ一部ヲナスモノデ,残ル後半線完成ノ暁ニ於イテ始メテ全機能ヲ発揮スルニ至ル」とあるが,後にそれが実現することはありませんでした。

戦後電源開発のため糠平ダムの建設が1953年12月より開始され、これにより,糠平駅付近から幌加駅近くまでの路線が水没することとなりました。これによって放棄されたのがタウシュベツ川橋梁で、最初は撤去する予定でしたがダム建設やダムの運用に対して問題を与えることはないため、撤去費用削減のため破棄、放置されました。

1955に糠平ダムは稼働し旧糠平駅,タウシュベツ川橋梁を含めた旧線は水没し、糠平湖が誕生し、湖の誕生で観光地として脚光を浴び,観光客は大幅に増加しました。夏には第5糠平トンネル出口付近に臨時乗降場「ぬかびらだむ」が設置され、賑わいを見せました。

 

沿線の衰退と合理化

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糠平以北は、戦後もしばらく鉄道以外の交通手段がない陸の孤島でしたが、1960年代後半から士幌線と並行する国道273号が整備され、1972年には士幌線が果たし得なかった三国峠を抜けるルートにより上川町方面へ開通しました。この道路の開通と共に沿線住民の多くは生活拠点を上士幌町中心部などに移すようになり、人口が激減、次第に糠平以北は無人地帯が続く状況となっていきました。

1977年には最盛期には人口2000人を擁した十勝三股は5世帯、14人まで人口が落ち込み、糠平 - 十勝三股間の乗客数も一日平均約6人となりました。
当該区間の営業係数はなんと22,500まで上昇しました。営業係数とは100円の収入を得るのに必要な金額なので、糠平 - 十勝三股間は100円のために22,500円掛けないといけない路線でした。士幌線では1400程度でしたが、国鉄最大の赤字路線と言われた美幸線でも3,859なので、この数字のヤバさが伝わってくると思います。ちなみに現在でも残っている北海道の赤字路線の営業係数は以下の通りです。

根室本線 富良野~新得2289
留萌本線 深川〜留萌1803

など厳しい数字が続いています。


https://www.jrhokkaido.co.jp/corporate/mi/senkubetsu/30senkubetsu.pdf参照


迫る廃線の日

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この状況から1978年に国鉄糠平-十勝三股の列車運行を休止し(廃止ではない)
上士幌タクシーによるバス代行輸送へと切り替えました。もともと利用客が少なかったため、住民による大きな混乱はなく、バス代行輸送へは短期間で移行しました。しかしその時点では鉄路が上川まで延伸される場合に備えて同区間の廃止手続きをはしませんでした。それは利用客が回復すれば、列車の運行を再開する建前があったからとも言われています。そのため代行バスは列車と同等に取り扱われ、運賃計算では通常の鉄道路線として扱われました。

人口が比較的多かった上士幌 - 帯広間も、徐々に過疎化し、帯広近郊(音更- 帯広)の通勤輸送には逆に本数が少なすぎたため、バスや自家用車に対抗できませんでした。さらに、貨物需要も木材の輸入自由化に伴い林業は低迷し、農産物の輸送も次第にトラック輸送に切り替えられ激減していきました。国鉄は本格的に士幌線廃線協議を進め、最初は地元からの反対があり、第三セクター化も検討されましたが赤字額を見せられてはどうしようもなく、地元自治体も廃線とバス転換に合意しました。こうして国鉄民営化直前の1987年3月23日に全線が廃止されました。

 

まとめ

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国鉄士幌線林業と開拓のために建設されましたが過疎化によってJR北海道になることなく廃線となりました。しかしその廃線跡は現在でもタウシュベツ川橋梁多くの人を糠平への引き寄せる観光資源となりました。